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ニュースファッション産業のパラダイムシフト
BLOG2021.2.1
ファッション産業のパラダイムシフト

「パラダイム」という耳慣れない言葉だが、日経ビジネスの1月11日号に慶応大学商学部教授の菊澤研宗教授のコラムにその言葉が出ていた。難しい概念で「パラダイム」とは、「特定の集団が採用する共通の理論やその思考の枠組み」と解釈している。かつて大学の恩師の高坂正尭先生が、ソ連が崩壊し東西冷戦が終結した時期にこれまでの「パラダイム」がシフトしたとおっしゃられ、この難しい言葉がとても印象に残っている。これまでの東西冷戦の中で常識として考えてきた枠組みを、リセットしなければならなくなった状況を踏まえて、先生はこの言葉を選んで使われたのだと思う。

当社が所属するファッション業界については、特に百貨店アパレルで、従来のビジネスの成功の方程式そのものが通用しなくなってきている。この業界では、特に店頭の仮需を賄うため、安易にブランドを作り過ぎ、商品も作り過ぎてきたと感じている。

この状況に追い打ちをかけるように2020年の統計の速報値では、百貨店の売上高が昨年25.7%減少した。さらに衣料品に関しては31.1%のマイナスとなった。昨年5月コロナによる緊急事態宣言の状況の中で、この業界で90年代は日本一の売上げを誇った老舗のレナウンが会社更生法を申請し倒産したことは、時代を象徴する出来事ではなかったかと思っている。いずれにしてもこれまでの既製服を作ってきた百貨店アパレルは軒並み大変な苦戦が続いている。コロナの状況が落ち着くまでに、これまでのファッション業界の「パラダイム」を見直さなければならない時期だと感じている。

これからの時代は中間の価格帯のブランドは淘汰され消えていき、とても高いか安いかの両極端で、中途半端な中間的な会社は生き残れなくなるのではと思っている。ごく少数の価格も高額の一部の「本物」のブランドだけが生き残り、一方、コモディティ化した商品は、価格競争力で優位性を発揮する会社しか立ち行かなくなるのではないかと考える。このコロナ禍の中でも売り上げを伸ばすECネット販売だが、サイトを見れば価格比較が簡単にできる。その為、価格がさらに大きな勝敗のファクターとなっている。

アパレルのこれまでの常識とされたブランディングの手法も、衣服を取り巻く環境がこれだけ変化していくと通用しなくなった。各社が同じような手法で、売り場からの要請に答え数々のブランドをこれまで構築してきた。しかし、直ぐに陳腐化して新陳代謝も激しい。中には他が真似の出来ないオリジナリティ、思想性のあるブランドも無いわけではないが、一部のコアなファンに支持されても、希少価値の範囲に留まるのが現状だと思っている。

 

しかし、消費不況の中で、業績を伸ばしている企業もある。家具業界での「ニトリ」、衣料品業界での「ユニクロ」、作業服での「ワークマン」等が売上げを増やし利益を伸ばすことでは成功を収めている。しかし、成功の要因は単純に価格だけではないと思う。これらの企業の成功の内容を分析していく中で、ファッション業界の中での新しい成功の「パラダイム」が見えてくるのではないか。

最後に少し長くなるが、菊澤教授が「パラダイム」の呪縛から逃れる提案があったので紹介したい。日本人はけっして成功した後に気が緩み怠けてしまうのではなく、逆で成功後それを維持しようとする過剰な努力が不条理にも日本人を失敗に導くと言っている。努力の過程で、それを守ろうとする利害関係者が出来て過剰適応することで、変えなければならないことが分かっていても変えられなくなるようになる。旧日本軍の巨艦大砲主義や白兵突撃のパラダイムから抜け出せなかったように、利害関係者間の調整が必要な組織ほど成功の呪縛から逃れるのは容易ではない。こうした状況から「変化を捉え、自ら変革する ダイナミックケイパビリティを持った企業」が生き残ると唱えている。

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その「変化を捉え、自ら変革する」企業とは、ここからは私の考えだが、優れた舵取りが出来る創業者的なリーダーを持つ企業だと思う。日経ビジネスの次の号の特集が「ユニクロ」だった。ユニクロは過去に野菜を販売したり、海外に出店したりして失敗も多かった。また、過去には超ブラック企業と呼ばれて、就職を敬遠されることもあった。しかし、いろんな実験を重ねながらも今日ではZARAやH&Mに肩を並べる世界企業に成長した。最近ではサステナブルな対応でも先端を走り、社員の処遇でも決してブラックとは呼ばれなくなった。この数年での自らの変容は凄いと特集されている。今回のブログの結論だが、ユニクロの柳井社長のように正しいと思ったことは貫き通すリーダーを持ち、「変化を捉え、自ら変革するダイナミックケイパビリティを持った組織」がこの時代を生き抜いていくのではないかと考える。